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雑録です。

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2017 
December 11
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2009 
December 11
 何とも言難い滑稽さを伴った話だが、私はこの小説を読んで真っ先にカフカを思い出した。カフカなど、何年来読んでいないか。にもかかわらず、この小説から想起されたのは他でもない彼だった。
奇妙な短編である。筋としては極めてありふれたものを採用している。短い。鮮烈ではあるものの、単なる優れた短編という域を出なそうなものである。にもかかわらず、「アルルの女」は誰もが耳にする名の一つとなった。もちろん、ビゼーの音楽も含めて、だ。だがビゼーは何故この小説にあれ程の音楽を付けたのだろうか(私がこの小説に手を付けた最大の理由でもある)。そしてこの数ページ程の小品に多くが魅かれるのか。
おそらく、不可能性、なのだと思う。
この小説の最大の奇妙さは、「アルルの女」というタイトルと中身の食い違いにある。小説内では主人公ジャンにばかりフィーチャーを当てているにもかかわらず、タイトルに彼を想起させる要素は一切含まれていない。それどころか「アルルの女」について書いている所と言えば、たった数ページの中に「ビロードとレースずくめのアルル娘」とこれだけだ。つまり、はなからこの小説は質感を伴った「アルルの女」という人間を拒否している。「ビロードとレースずくめのアルル娘」という表象の他は何ら設置されていない。彼女自身の言葉など勿論用意されていない。精々「あばずれ女」と一言罵るだけで、彼女についてはほとんど言及されない。
それで思い出したのがカフカの「城」だった。
カフカの文学が永遠に達成不可能な要素を含んでいるのは有名な話だ。「城」ならばそのタイトルそのまま、到達(解剖あるいは理解)不可能な権力が設置され、「審判」は「罪」そのものが到達不可能とされる。到達の成し得ぬ状況下で、対象をとりまくものが明らかになってくる。こうした峻厳な(ある意味でマゾヒスティックと言ってもいい)メソッドを採用することで、カフカは(最終的には)世界的な文学者となり得たのだ。
「城」のウェストウェスト伯爵(何という名前だろう)の城の描写はこうだ。「横に伸びた構えで、少数の三階の建物と、ごちゃごちゃ立てこんだ低いたくさんの建物とかできていた」あの長さでこの短さは、異常と言っても文句は言われまい。異常である。はなから完全にシンボルとして取り扱うことを意図していたのだろう。
同じメソッドを「アルルの女」は採用している。物言わぬ「ビロードとレースずくめのアルル娘」というこのフレーズの登場は、何もドーデが簡明な描写を好んだからではない。その直前の「星」なんて延々星の名前を物語って終わる(素晴らしく牧歌的で美しい作品なのだが)。これもカフカと同じで、初めから不可能性のシンボルとして設置する意図だったのだろう。伝聞の話だから、というのではない。
だからこそ、カフカの「城」同様に、人はこの小説に魅かれ、ビゼーは音楽を書いた——長ったらしい補足のエピソードまで付けて。人間は不可能性に魅了される生物である。もっとも、カフカの場合は音楽こそ書かれなかったが、彼を世界的な小説家にのし上げさせた。
それにしても「城」が権力の不可能性であった一方で、「アルルの女」が恋愛対象としての不可能性を描いた、というのは何とも興味深い話だ。時代の変遷、なのだろうか。百姓のジャンがアルルの娘を手に出来なかった最大の原因は家族だ。「家のものたちは最初この関係を喜ばなかった。娘は浮気者とされていたし、その両親はこの国のものではなかったからだ」……ジャンは最後まで嫌がる両親を気遣った末に自殺する。カフカ同様、ドーデはアルルの女への到達不可能性を描くことで、家族の超越が不可能であった時代性を示している(これは今でもかなりそうだが)。それは、城における権力の不気味さ同様に、家族であるということの一種の不気味さを無残にも浮き彫りにする。論理の飛躍もいいところだが、ドーデはこの作品で、「家族」という意識下の束縛を生む、封建制度への反感を示したのではないだろうか。不可能性はこのように、その時代ごとの問題を反映する能力がある(当然の話だが)。
ドーデが自覚的であったかどうかは解らないが、私は不可能性は確実に意図されたものだと思う。「夕方になるとアルルのほうへ歩き出し、落日の光のなかに町のひょろ長い鐘楼のそびえたつのが見えるところまでまっすぐに歩いていった。そこまで来て彼は引き返した。けっしてそれより先には行かなかったのだ」……「ひょろ長い」鐘楼に信仰の束縛の弱さを見出すのは深読みのしすぎだろうか。まさにアルルは到達出来ない「城」であり、それは家族という束縛からの解放の象徴であった。だからこの物語は「ビロードとレースずくめの女」ではなく「アルルの女」なのであり、真なる主人公は彼女よりもむしろ決して辿り着き得ぬ街アルルなのだ。自殺という解放への請願は、そのままアルルの解放と重なる。アルルとはまた、死でもある。
「城」ならばこうだ。「村の大通りであるこの通りは、城のある山へは通じてはいなかった。通りはそこの近くへ通じているだけであり、次にまるでわざと曲がるように曲がってしまっていた。そして、城から遠ざかるわけではないのだが、近づきもしなかった。……どこまでいっても終わろうとしないこの村の長さに彼は驚いてもいた」……。意識的な引き返しではなく、もはや望もうとも辿り着き得ないその「城」は絶望感を増している。もはやここでは自殺という選択肢さえ無い。また死による解放を願うまでの苦痛を「城」はもたらしてはいないのだ。もはや「城」は死ではない(「審判」は死であったが)。このあたりに、家族という小宇宙による個別の人員支配を取りやめ、城という権力の表象で弱い苦痛を持ってして支配する、そのある意味での上手さを垣間見るような気がする。もっとも、それさえ崩壊する可能性は十分にありそうなものだが。
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