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雑録です。

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2017 
August 18
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2010 
June 27
 今月のナクソスは室内楽に思わぬ掘り出し物が。

○タネーエフ「交響曲第二番/第四番」(ノヴォシビルスク・アカテミック・オーケストラ/トマス・ザンデルリンク)
作曲者はチャイコフスキーに師事。作曲家よりも俄然教育者として有名で、スクリャービン、ラフマニノフ、プロコフィエフと綺羅星のように素晴らしい音楽家を輩出しました。そんな彼の作風はそのまんまチャイコフスキーに叙情性にブラームスを放り込んだようなカチカチ熱血ロシアン系。作風としては保守的だけど、教育者としては革新的な人材を輩出した、というあたりにはマスネーやダンディと一緒。こんな人、どこの国にも一人は居るもんですな(そして皆素晴らしい)。
さて交響曲、有名な第四番よりかは第二番を面白く聞きました(どうも金管が重要らしい四番、この曲をやるには少々オケが力不足です)。特に第一楽章のホルンは圧巻! びっくりするほど正統派熱血ロシア系メロディー。「うおおおおおおおおおおおお!」って感じのマッシブ交響曲。ええ感じです。古臭くてもやっぱりロシア演歌はいいですなあ。
演奏は第一番&第三番でかなり透明度の高いソノリティを見せつけたノヴォシビルスク・アカデミー響。「どうみてもナクソスのB級ロシアオケなのに……くやしい……!」と歯がゆい思いをしてましたらとうとうぼろを出しましたよ。今回の録音は技師さんとともに一変。ぼろが見えたのは弦と金管。ナクソス・オケ特有の薄っぺらい弦で奮闘する様にもうたまらん。金管も無骨なソノリティで、ロジカルなタネーエフの曲をやるには少々熱過ぎなきらいも。第三番の演奏が素晴らしかっただけに期待しましたが、まあこんなものか、となんだかさみしい安心。しかしここでも指揮のザンデルリンクさんが素晴らしい。お名前でまさかと思いましたがブックレットを見ますとクルト・ザンデルリンクの本物の息子さんでびっくり。2.5流のオケで大奮闘。熱演です。ぺらっぺらの弦楽を武骨なロシア訛りに大変身させる手腕に感心。お顔そのまんまでお硬い曲に強いようです(ブリリアント・クラシックスにマニャールの交響曲全集もあるとか)。

○ヴォーン・ウィリアムズ「我らに平和を/聖なる市民」(ボーンマス響/バッハ合唱団/デイヴィッド・ヒル)
ナクソスのイギリスオケの中でも屈指のB級ぶりを誇るボーンマス響。そんなこのオケが今まで妙に高い評価を受けている理由がイマイチ解らなかったのですが、ここにきてようやく解りました。その最大の理由は助演の上手さ。オケ単体としては正直かなり微妙な演奏の多いボーンマス響ですが、助演に回ると途端に素晴らしいアシスタントに。音色が大らかなのが幸いしているんでしょうな。名前が妙にビッグなバッハ合唱団も意外や意外悪くない。一昔前のナクソスの合唱などお笑い草だったのに、最近の進歩は著しいですな。ただしバリトンのソリストは田舎臭く、なんかひなびた田舎の眠いミサみたい……。さてそんな演奏陣が送るのは、イギリス音楽のおやびんRVWの宗教音楽。極めて通俗的で、正直ちょっと物足りない管弦楽の作品も多数ある一方で、美麗極まりない室内楽もちらほら。当たり外れの大きい人です。さてそんな彼の宗教音楽はといえば、これは見事なまでの当たり。「我らに平和を」はハードな熱唱系でちと胃もたれしますが、「聖なる市民」はいいですよ。ひたすらに穏やか。フォーレのレクイエムをもうちょっと厳格に輪郭取ったらこんな感じか。件のレクイエムはまさしく天国での安息を求めた、平和を志向する歌でしたけれど、この曲はまさしくタイトルそのまんま。詩的なタイトルと相まってヴォーン・ウィリアムズのおいしいところを聞ける名曲です。

○シュルホフ「弦楽四重奏曲第一番/五つの小品/弦楽四重奏曲第二番」(アヴィヴQ)
もっぱら「ジャズ風に」ばかりが取り上げられるシュルホフさん。気になってたので買ってみますと、これが当たりでございました。まず演奏陣が素敵。ナクソスの弦楽四重奏といえばピッチヨレヨレだけど熱気で何とか聴かせるレベルの団体が多く、マッジーニ四重奏団やファイン・アーツ四重奏団が良い例(後ろのフランクの弦楽四重奏曲に到っては、老練というよりは老いぼれな音色でして……)。ところがですねえ……物事には例外というものがあるんですな。演奏団体のアヴィヴ四重奏団は初耳でしたが、それも道理。ホフマイスターとかいう怪しさ満点のC級作曲家の弦楽四重奏を一度ナクソスに録音したっきりで、同社とはまったくの疎遠。もっぱら正規盤の会社ばかりをお相手したばかりらしく、ショスタコーヴィチがお得意とか。なるほど、と思わず頷きたくなるその音色はモダンでシュルホフにピッタリ。技術も正確色気もたっぷり。まず聞き物なのは色んな音楽をつまみ食いした分裂的・コスモポリタルな「五つの小品」。「タンゴ・ミロンガ風に」なんて、ストラヴィンスキーのチープなタンゴを思わせる程お洒落。それでいて所々東欧系のやさぐれトーンが響いてくるのが魅力的です(このまま映画にでも使えそう)。これの成功に気を良くしたシュルホフさんが次に手がけたのが弦楽四重奏曲第一番。意外や意外、この曲はモロ・バルトークです。彼の穏健でアメリカニズム入ったときの管弦楽をそのまま弦に移し替えたような作品で、第一楽章なんてとても退廃音楽の作曲家とはとても思えない程古典的で親しみやすい正統派です。そんな彼のハードな面が聞けるのは第四楽章で青髯の城主も顔負けなぐらいノリノリで、切れちゃったときのマリピエロの弦楽四重奏曲みたい。マリピエロ風といえば第三楽章がそうなのが第二番。民俗的土俗的な第一番とはうって違い、「ジャズ風の」のブラックさはこちらで聴けます。ひたすらにウネウネと迷路を彷徨うような音楽、なるほどショスタコ好きの団体がこんなに愉しげに演奏するわけです。どの曲も当たりで、シンフォニックな響きがひたすらに心地よいです。今月一番当たりなのは多分これでしょう。それにしてもこの団体いいですなあ。弦楽器四本でまさかこんなに厚い響きを放てるとは思っても見ませんでした。ルーセルの室内楽とか録音してくれないかなあ……。

○グラナドス「ピアノ三重奏曲/ピアノ五重奏曲ト短調/ゴィエスカスより間奏曲」(ロムピアノ三重奏団)
ヴァイオリン・ソナタや「星々の歌」など、思わぬ傑作の多いグラナドスさん。これ見よがしのスペイン情緒を押し付けるのではなく、ひたすらにノーブルで儚げなメロディを歌う彼の音楽はまさにスペインのショパン。ピアノばかりが取り上げられる彼ですけれど、室内楽も素晴らしいったらありゃしない! さて期待にわくわくしながら聴いてみますとこれが当たりなんだから世の中おいしいもんです。果たして彼のピアノ三重奏曲は全ぬるい系クラシックファンが諸手を上げて喜べそうな穏健な作品で、第2楽章のポエティックぷりが溜まりません。キラキラが横溢する彼の作品はやっぱり普通ではない。適度にこなれたロマンティシズムが心地よいことこの上ない素晴らしい作品です。それと比べるとピアノ五重奏曲はややハード。フランクの晦渋なそれを思わせるものがありますが、とはいえ所々に顔を見せる歌心たっぷりのメロディが胸に染みます。とりわけ異邦人風味の第二楽章なんて泣かせること泣かせること。長生きしてたらさらに素敵な音楽を書いていたんでしょうなあ……。さてそんな文句の付けようのない本盤にも文句の付け所が。一つ目はもちろん演奏。ロムピアノ三十奏団そのものは質朴なピアノ共々悪くないです。やはり技術は不正確な所が多々ありますけれど、それでもローカルらしい大らかな連携を見せてくれて好印象。問題なのはやはり五重奏曲の方ですが。訳のわからん全く無縁の人間を二人引き連れてきて「はい楽団です」ってそりゃ詐欺だろナクソスさん。ピアノの陰影がとにかく美しいだけに、弦楽がやや格落ちなのは、まあ不可抗力ですかね。ピアノさえ良ければまあいいだろ! と言わんばかりの男気溢れ過ぎる演奏です。それとも私に五重奏を聞くだけの力量がないからか……。もう一つの文句は「ゴイェスカス」の間奏曲ですか。他人の編曲ということではなから全く期待しておりませんでしたが、これがまたおっそろしくショボショボ。出だし三十秒のピアノでグラナドスさんとの才気の開きは明瞭。ピアノの素敵じゃないグラナドスさんなんてグラナドスじゃない! ただのリズム打ち扱いじゃねーか! と文句は尽きませんこの編曲(曲自体も正直スペイン色が濃過ぎて、ちょっと……)。とはいえピアノ三重奏曲はなかなかの出来栄えですのでオススメ。この調子でグラナドスさんの室内楽シリーズ続けてほしいなあ……。
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2010 
February 09
dc359c78.jpg 「ファーストコンタクトは協奏曲が一番」がセオリーだったのですが、この盤に限っては大外れ。「ジャッドならやってくれる」(そういやジャッドの顔初めて見た)も「ろいやる……りゔぁぷーる……?」な寡聞にして聞いたことねー低体温なオケでイマイチ盛り上がらない。加えて曲目が微妙。「ピアノ協奏曲」は手数の多さを自慢するばかりのピアノ(ブリッジのピアノ・トリオでも登場しているらしいです。例によって知りません)でげんなり、イギリス音楽特有の穏健なモダニズムが単なる小手先自慢のスノビズム化。ジャッドはバーンスタインの「不安の時代」も微妙だっただけに、躁鬱で豪快にかますキャラクターがコンチェルトでは合わないのかも。
吹奏楽が超有名な「イギリス民謡組曲」はオーケストレーションした途端に劇的な劣化。野外演奏を最初から念頭に置いていたのか、どう考えても吹奏楽向けの曲なだけに、びっくりするぐらいの「なんだかなあ……」な劣化にげんなり。「ランニング・セット」は主題展開に「なんだかなあ……」なものの、オーケストレーションの美味なアンダーソン程度に聞けるものの、別人が担当したならそりゃあ仕方ない。それでも構成面での素晴らしさはやっぱり有名人。おそらく「アイルランド組曲」はこのあたりを参考にしたのだと思うのですが、原曲との違いは素人の私にも歴然。
そんな微妙にアテの外れた本盤、当たりなのは「すずめばち」。最初からコンサート・ピース目的かと思われる序曲が分けても素晴らしい。お見事なオーケストレーションはそのまま、元々のちょっと俗っぽい筆致は明快で解りやすい作風に、加えていわゆる「穏健なモダニズム」のリリシズムがばっちり当てはまって「そうだよこれだよ!」な見事っぷり。序曲以外の情景描写もゲーム音楽チックに「わかりやすさ」に徹しすぎるきらいはありますが、さすがにイギリス音楽屈指の有名人だけあって、悪くないです。ジャッドの指揮もこっちは力が入っていていい感じ(過剰に通俗的な作品やコンチェルトでは途端にやる気がなくなるのか)。「ピアノ協奏曲」もスピードが早くなるとげんなりですが、緩楽章では全然悪くありません。いいです。  

(追記)その後彼の室内楽を(例によってNaxosで)買いましたが、「これが同一人物?」と言うほどの素晴らしい健筆振り。とてもアンダーソン顔負けの(悪い意味で)俗っぽい作品を書いていた人間とは思えません。うーん、詐欺だ。 
2010 
January 11
 Naxos新譜から気になる奴をチェックすることにした。日記の更新度低過ぎるなあ。

※○:興味本位 ●:買うけど後回し ★:購入確定
■Naxos/2010年一月

○NAXOS-8.669022 : アダムズ「中国のニクソン」
下手したらうちの人生を変えたかもしれないピアノ連弾「ハレルヤ・ジャンクション」のコンポーザー、ジョン・アダムズの代表的なオペラだそうです。ポストモダンオペラな雰囲気マックスみたいに言われてるけど、でもこういう現実の祝祭的な再現って逆に中世ぐらいのノリなんじゃあ……。ストラヴィンスキーの新しい音楽がちょうどバーバリズムに入ったように、新規と古代は奇妙に繋がってたり、するのかもね。まあ、それはそれで面白い。後たぶん3枚CD3000円だから買うに買えない^^ 指揮はマリン・オールソップ。端正ながらもやや淡泊な表現(とバルトークの「不思議なマンダリン」で判断したんだけど、どうだろう……)にポストモダン歌劇が合うのか……。クラスの優等生委員長体質のオールソップさん、たぶん生真面目に振ってくれそうです。生真面目すぎるというか何というか、万能型のコンダクターを目指してお勉強というのは解るのですが、もっと弾けてほしいかも。熱演タイプとは言えないです(とはいえ、件のバルトーク管弦楽作品集、「ハンガリーの風景」は見事な演奏でした。単純にねばちっこく、土臭いバルトークの作風に合わないだけかもしれない……)。

★NAXOS-8.570323:ルーセル:交響曲第1番「森の詩」Op.7/交響的前奏曲「復活」Op.4/劇音楽「眠りの精」Op.13
購入確定。第三番・第四番ともに一曲か二曲は確実に当たるルーセルさん(前は三番が大当たり。後ろは全部大当たり。「組曲」の素晴らしいこと! そっけないタイトルでも中身が素晴らしければ文句が出るわけありません)。今回は初期作品だからかタイトルがすてきすてき。演奏はおなじみドゥヌーブ/スコットランド王立管。個人的にRPOに匹敵するんじゃないかなあ、と思う程レベルもテンションも高いオーケストラに、ドゥヌーブの指揮が見事。期待します。箱盤化する気満々ですが、是非第四番もやってボックスにしてしまってください。

●ヴォーン・ウィリアムズ:劇音楽「すずめばち」(アリストファネス組曲)/ピアノ協奏曲ハ調/イギリス民謡組曲(G.ジェイコブ編)/ランニング・セット
イギリス音楽といえばこの人らしいが、小生悲しいことにそっちの音楽にいまいち手が出せてない(まともに楽しんでるのはブリッジぐらい)。ピアノ協奏曲はピアノ特有のリリカルさと適度な構成力の両方が要求される分野なだけに、個人的には聞きたい作家とのファーストコンタクトには一番だと思っています。カップリングの「すずめばち」と「イギリス民謡組曲」から察するに、穏健なモダニストなのかな。楽しみです。指揮がジェイムズ・ジャッドというのも期待度大。共感に富んだ指揮には好感が持てます。

●イギリスのヴィオラ作品集:ブリス:ヴィオラ・ソナタ(1933)/ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第3番〜L.ターティスによるヴィオラとピアノ編/ブリッジ:ヴィオラとピアノのための小品集/アレグロ・アパッショナート/セレナーデ/思い出/ゴンドリエラ/沈思せる人/ノルウェーの伝説/子守歌
ブリスは気になるあいつだけど手が出せない状態、ブリッジは「春の始まり」「海」で個人的には大ヒットなものの、ディーリアスのトランスクリプションが蛇足くさい……彼のヴァイオリン・ソナタ聞きたいんですけど、音源が古いんですよね。昔のNaxosは微妙に評判悪いだけに、不安……。奏者は二人とも聞いたことないですが、まあ今のNaxosではそう外れはないでしょう。

★フランク:弦楽四重奏曲ニ長調FWV9/ピアノ五重奏曲へ短調FWV7

フォーレのピアノ五重奏曲で彼の魅力に気付かせてくれた、ファイン・アーツ&クリスティーナ・オルツィス嬢が再登場。しかも今回はフランクと、こっちの気になる奴に見事に照準が。ファイン・アーツはシンパシーに富んだ熱演を、オルツィス女史は色彩的なピアノを、と演奏陣に不安はなさそうです。楽しみ。

○タルレガ:ギター作品集
「アルハンブラ宮殿の思い出」しか知らないタレガのギター作品集が出るそうです。没年が1909と意外とプレモダンな人。気が迷ったら買いにいきます。曲目を見るだけでいかにもあれっぽいのですが、ギター独奏のCD持ってないし、買ってみるのも悪くはないかもしんね。

■Naxos/2010年2月

★ヴァイオリン・ソナタ集/ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタト長調/レスピーギ:ヴァイオリン・ソナタロ短調P.110/グラナドス:ヴァイオリン・ソナタ

だからなんでグラナドスとか丁度聞きたい人とってくんの! ありえん! ラヴェルのVnソナタも未チェックなだけに、これはおそらく購入確定……。レスピーギは若い作品番号からちょっと不安。もしかするとろまんろまんかもしんね。グラナドスは国民楽派のノリにロマンを混合といういつものあれ。まあでも、ラヴェルのVnソナタがあるし、二人とも気になる人だし……買っちゃう。ヴァイオリンはロン・ティボー優勝の女傑だそうです。楽しみ。

○メシアン:3つのメロディ/ハラウィ——愛と死の歌
メシアンといえば「トゥランガリア交響曲」と「前奏曲集」「カンテヨージャ」程度しか聞いてない私が、よりによって苦手な歌曲から入れるわけがない。しかも「愛」だの「死」だのが枕詞にくっつく「ハラウィ」なる怪しさ満点のタイトル。怖いですねえ。ちょっと買う勇気は出ません。

○マリピエロ:交響曲第7番「カンツォーネ風」/1つのテンポによる交響曲/シンフォニア・ペル・アンティジェニーダ
マリピエロの有名な交響曲集もとうとう第四番まで移行だそうです。ところが元板が悪名高いマルコ・ポーロな上に、録音が古く、正直手が出ないで居ます。なんだかすてきタイトルの連発に、Brilliant Classicsでの弦楽四重奏曲の健筆振りなど、魅かれる要素は十二分にあるのですが……。加えて演奏のモスクワ管もNaxosで聞いた限り並のオーケストラ以上の仕事はばっちりやってくれるオーケストラな気がするのですが、正直なところ不安でやっぱり買う気は出ません。有名なんだけどなあ。欲しいんだけどなあ。ジャッドさんあたり、新録音していただけませんか? 
2010 
January 04
682de8f2.gif 「ドイツものは重くてだめ」に該当しつつ「じゃあふれんちだ」にもまあ該当しつつ「でもアメリカものもいいじゃん」「軽薄で通俗なのもいいじゃん」になってしまうこの知性の低さ(自分)。「ドイツものが嫌いで、好きなの何って聞かれてアンダーソンだなんて、ただのイージー・リスニング好きじゃん!」と言われても仕方ないこの切なさ。あげくの果てになけなしの銭をはたいて買ってしまうアンダーソン管弦楽作品集。誰かこれ止めろよ! めっちゃいい曲満載だし、演奏陣も文句なし。BBC放送交響楽団は放送と銘打つだけあって耳に心地よい、聞き流しやすい音を提供してくれるうえに、指揮者のLeonard Slatkinが適度に熱演。文句の付けようがない。
自分そもそもこの企画に吸い寄せられてしまったのは第三集の「76本のトロンボーン」が原因で、これを買うまではその妙に薄っぺらい感じのタイトル、無駄に多いトラックリストに、「うわあ、ダルそう」と偏見を抱いておりました。で買ったら今度ははまるはまる、一日「セレナード」をかけてた日もあったりなかったりでとうとう第一集にも第四集にも手を出しちまいましたちくしょうこのやろ。
第四集ではアンダーソンの編曲者としての顔にスポットライトを当てるということで、作品はすべて編曲もの、原曲が存在するものとなっています。ところがこれがほぼすべて外れ無し。メロディメーカーでは必殺仕事人も真っ青のアンダーソン、オーケストレーションの見通しがさらに明瞭になってしまってはそりゃ文句の付けようがありません。
まず三つの歌曲編曲集の泣かせること泣かせること。「忘れられし夢」「舞踏会の美女」「ブルー・タンゴ」……古き良きアメリカのノスタルジックな情感といえば、やはりコープランドの音楽でしょうが、初期にはトゲトゲした作品の多かったコープランドと違って、初めから素直なベクトルのアンダーソンの音楽はやはりイージー・リスニング。特に「忘れられし夢」の泣かせること泣かせること……久々に歌曲で良いなあと思えた曲です。「ブルー・タンゴ」は同一主題を幾度となく反復するあたりの退屈さはあるものの、「舞踏会の美女」がこれまた楽しいことこの上ない一曲。まさかオマケ程度に思っていた歌曲にはまるとは。
「我が母校」は第三集で最も理解しがたかった「ハーバード・スケッチ」の編曲。原曲は見通しが付かず頭の痛い曲だったのですが、明快に整理されて非常にわかりやすい曲に。ただし冗談音楽風のエッセンスもそのまま残して、アンダーソン固有のユーモアは保たれています。終曲の「同窓会」が非常に楽しい。
「荒れ野のバラ」はマグダウェルの同名の楽曲の編曲ですが、これがまた恐ろしく泣かせる曲です。抒情に入りはするけれども、オーケストレーション自体はシンプルでやはり聞きやすい。アンダーソンはオーケストレーションの明快さが他の作曲家に比べて際立っているなあ……とあらためて感じました。それでいて空疎にならないのは、作曲者のメロディストとしての能力故かなあ、とか。やや手数の乏しく、オーケストレーションの色彩感を薄めて通俗的にしたディーリアス……に近いのかなあ。
「サマー・スカイズ」はやや凡長な印象を受けるものの、ガーシュウィンよりはるかに大らかで懐古的な曲調は、やはりどこか心に染み渡るものがあります。先程はディーリアスと記しましたが、こうしたアメリカ特有のナイーブさを織り交ぜた牧歌的な作品でのアンダーソンは本当に強い。都市のための音楽家といえばガーシュウィンが上がるのに対して、アンダーソンは地方のための音楽家のような側面があるのかもしれない(そしてそれこそが、彼をごく僅かの作品以外はほぼ演奏されない無名作家にならしめたのかもしれませんが……)。
「アイルランド組曲」「スコットランド組曲」は共に自身の過去の小品から編曲。ノリはほとんどメンデルスゾーンの「スコットランド」みたいなもので、ツアリズム的な側面を持っていると言えるかもしれないこの二曲。「アイルランド組曲」では「ミンストレル・ボーイ」と「緑が野に」で相変わらず弦の使い方が見事。ピッチカートの愛らしいこと。「夏の名残のバラ」はいつもの泣かせる系弦楽器独壇場。コルンゴルトも真っ青の直球泣かせ振りです(音の線は細いものの、ソリストはノリノリ)。「マローの道楽者」はやや騒がし過ぎる面があるものの、「別れたあの娘」では適度にキープされた快活さとユーモアが民謡調の曲想と相まって大変に聞きやすい。「スコットランド組曲」ではさらに牧歌的な面が強調され、ちょっと品のないイギリス音楽程度として楽しく聞けるのではないでしょうか(まさしくアメリカ人のスコットランド旅行、というところ)。
素晴らしいのは「クリスマス・フェスティヴァル」。文句無しのコンサートピース。日本人にもお馴染の曲が山のように詰め込まれ、「きよしこの夜」から鈴が入ってオルガンにまで疾走していくあの快感は尋常じゃない。金管の最後の吠えっぷりもとんでもない。このあたり演奏陣の熱演振りも尋常ではないです。前述の二曲の組曲含め、ミニアチュールでばかり評価されがちなアンダーソンですが、こういった長尺の曲でも十二分にその実力を発揮してくるなあ……という印象。特にこっちの曲は組曲にも増して色彩的にオーケストレーションが構築されてあって、聴いてて飽きることがまるでありません。
斜に構えた意味での新古典主義者というより、アメリカのナイーブさがそのまま結びついた、純粋な「古き良きアメリカ」という古典を追及した人間なのかなあ……とあらためて思います。六人組がキッチュさをもってしか通俗に歩み寄れなかったのを考えると、やっぱりアメリカ人とフランス人は違うなあ……とも(プーランクはもっと素直な人間な気がしますが)。全体的に通俗的といえばそうなのですが、最低でもちょっと品性の無いディーリアス程度には聴けると思います。もうちょっと評価されんもんだろうか、アンダーソン。絶対いい作曲家だと思うんですけどねえ。通俗も(通俗という汚い言葉は実際似合わない音楽なので、ポピュラリティとかそっちの方が的確でしょうが)ここまで極めたら一つの芸術なんじゃないかもしんね。そう思うのは、私がこの手のポップス音楽に弱い、ただのイージー・リスニング好きなだけなのかも。 
2009 
December 11
 何とも言難い滑稽さを伴った話だが、私はこの小説を読んで真っ先にカフカを思い出した。カフカなど、何年来読んでいないか。にもかかわらず、この小説から想起されたのは他でもない彼だった。
奇妙な短編である。筋としては極めてありふれたものを採用している。短い。鮮烈ではあるものの、単なる優れた短編という域を出なそうなものである。にもかかわらず、「アルルの女」は誰もが耳にする名の一つとなった。もちろん、ビゼーの音楽も含めて、だ。だがビゼーは何故この小説にあれ程の音楽を付けたのだろうか(私がこの小説に手を付けた最大の理由でもある)。そしてこの数ページ程の小品に多くが魅かれるのか。
おそらく、不可能性、なのだと思う。
この小説の最大の奇妙さは、「アルルの女」というタイトルと中身の食い違いにある。小説内では主人公ジャンにばかりフィーチャーを当てているにもかかわらず、タイトルに彼を想起させる要素は一切含まれていない。それどころか「アルルの女」について書いている所と言えば、たった数ページの中に「ビロードとレースずくめのアルル娘」とこれだけだ。つまり、はなからこの小説は質感を伴った「アルルの女」という人間を拒否している。「ビロードとレースずくめのアルル娘」という表象の他は何ら設置されていない。彼女自身の言葉など勿論用意されていない。精々「あばずれ女」と一言罵るだけで、彼女についてはほとんど言及されない。
それで思い出したのがカフカの「城」だった。
カフカの文学が永遠に達成不可能な要素を含んでいるのは有名な話だ。「城」ならばそのタイトルそのまま、到達(解剖あるいは理解)不可能な権力が設置され、「審判」は「罪」そのものが到達不可能とされる。到達の成し得ぬ状況下で、対象をとりまくものが明らかになってくる。こうした峻厳な(ある意味でマゾヒスティックと言ってもいい)メソッドを採用することで、カフカは(最終的には)世界的な文学者となり得たのだ。
「城」のウェストウェスト伯爵(何という名前だろう)の城の描写はこうだ。「横に伸びた構えで、少数の三階の建物と、ごちゃごちゃ立てこんだ低いたくさんの建物とかできていた」あの長さでこの短さは、異常と言っても文句は言われまい。異常である。はなから完全にシンボルとして取り扱うことを意図していたのだろう。
同じメソッドを「アルルの女」は採用している。物言わぬ「ビロードとレースずくめのアルル娘」というこのフレーズの登場は、何もドーデが簡明な描写を好んだからではない。その直前の「星」なんて延々星の名前を物語って終わる(素晴らしく牧歌的で美しい作品なのだが)。これもカフカと同じで、初めから不可能性のシンボルとして設置する意図だったのだろう。伝聞の話だから、というのではない。
だからこそ、カフカの「城」同様に、人はこの小説に魅かれ、ビゼーは音楽を書いた——長ったらしい補足のエピソードまで付けて。人間は不可能性に魅了される生物である。もっとも、カフカの場合は音楽こそ書かれなかったが、彼を世界的な小説家にのし上げさせた。
それにしても「城」が権力の不可能性であった一方で、「アルルの女」が恋愛対象としての不可能性を描いた、というのは何とも興味深い話だ。時代の変遷、なのだろうか。百姓のジャンがアルルの娘を手に出来なかった最大の原因は家族だ。「家のものたちは最初この関係を喜ばなかった。娘は浮気者とされていたし、その両親はこの国のものではなかったからだ」……ジャンは最後まで嫌がる両親を気遣った末に自殺する。カフカ同様、ドーデはアルルの女への到達不可能性を描くことで、家族の超越が不可能であった時代性を示している(これは今でもかなりそうだが)。それは、城における権力の不気味さ同様に、家族であるということの一種の不気味さを無残にも浮き彫りにする。論理の飛躍もいいところだが、ドーデはこの作品で、「家族」という意識下の束縛を生む、封建制度への反感を示したのではないだろうか。不可能性はこのように、その時代ごとの問題を反映する能力がある(当然の話だが)。
ドーデが自覚的であったかどうかは解らないが、私は不可能性は確実に意図されたものだと思う。「夕方になるとアルルのほうへ歩き出し、落日の光のなかに町のひょろ長い鐘楼のそびえたつのが見えるところまでまっすぐに歩いていった。そこまで来て彼は引き返した。けっしてそれより先には行かなかったのだ」……「ひょろ長い」鐘楼に信仰の束縛の弱さを見出すのは深読みのしすぎだろうか。まさにアルルは到達出来ない「城」であり、それは家族という束縛からの解放の象徴であった。だからこの物語は「ビロードとレースずくめの女」ではなく「アルルの女」なのであり、真なる主人公は彼女よりもむしろ決して辿り着き得ぬ街アルルなのだ。自殺という解放への請願は、そのままアルルの解放と重なる。アルルとはまた、死でもある。
「城」ならばこうだ。「村の大通りであるこの通りは、城のある山へは通じてはいなかった。通りはそこの近くへ通じているだけであり、次にまるでわざと曲がるように曲がってしまっていた。そして、城から遠ざかるわけではないのだが、近づきもしなかった。……どこまでいっても終わろうとしないこの村の長さに彼は驚いてもいた」……。意識的な引き返しではなく、もはや望もうとも辿り着き得ないその「城」は絶望感を増している。もはやここでは自殺という選択肢さえ無い。また死による解放を願うまでの苦痛を「城」はもたらしてはいないのだ。もはや「城」は死ではない(「審判」は死であったが)。このあたりに、家族という小宇宙による個別の人員支配を取りやめ、城という権力の表象で弱い苦痛を持ってして支配する、そのある意味での上手さを垣間見るような気がする。もっとも、それさえ崩壊する可能性は十分にありそうなものだが。
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